ちまたでは、国立大学の文系廃止論に対する賛成派、反対派の意見が取り沙汰されている。
これは、文部科学省が2015年6月に国立大学向けに出した人文系の組織再編を促す通知が発端である。
それもあり、文系は必要なのか、理系と文系の違い、それぞれに属する人の脳の思考回路の違いについて私見を述べる。
はじめに
最初に保険として述べておくと、私は今までに度々、文系理系について考えることがあるが、その考えを綺麗に余すことなくまとめることはできない。
そのため、偏った内容や論理的におかしい点が多数ある文章になってしまうだろうが、そこは寛大な心で大雑把に読んで頂きたい。
文系と理系の思考回路
世間一般的に、「文系脳」「理系脳」という言葉がある。
文系の人の多くは、こんな言動をする、理系の人の多くは、こんな言動をするという世間一般の人々の感想の傾向から生まれた言葉だと考える。
正確な定義はないが、
「文系脳 = 感情論的な思考」
「理系脳 = 論理的な思考」
と見聞きすることが多い。
それに加え、私は「文系脳 = 女性脳」としている。
日本の現状を見ると、文系は女性が多く、理系は男性が多いことから、傾向としてはこのように捉えるのもおかしくないだろう。
私の場合は、思考回路の種別を表現するために、この言葉を用いているが、「文系」という本来の言葉の意味だけを捉えた場合、「文系は、論理的ではなく、感情的に物事を考える」というのは、間違っている。
文系も文章を書いたり、データを収集したりして、研究をする。そのとき論理的思考は必要である。しかし、なぜか文系は、論理的思考をしないと言われる。
それは単に、大学を卒業する文系出身者が、本来論理的思考能力を備えている必要があるのに、その能力がない傾向が大きいからである。後に述べるが、これが文系廃止論にも繋がってくる。
そのため、「文系=論理的思考ができない」は、本来は間違っている。
ただ、今回は定義した言葉があると文章を書きやすいため、文系は感情論といった意味も持たせて述べる。
文系が感情論的っぽい理由
実は、文系が感情論に見えやすく、理系が論理的に見えやすい理由は、上記で述べた以外にもある。
こちらの方が見落とされがちな重要な理由だと考えている。
文系の分野では、結果ありきで物事を考えることが多いのではと考えている。
例えば、弁護士は、弁護する側の人を最大限に弁護する。例え、黒だったとしても白だと“信じて”白にすることさえある。つまり、白の結論に導くように、論理を組み立てるのである。場合によっては、論理さえ組み立てず、感情論で大衆(裁判員、陪審員)を騙そうとする。
映画「ted2」に裁判のシーンがあり、やり手弁護士が「どんなに正しい論理を言っても無駄である。感情で陪審員を動かす必要がある。」みたいなことを発言していたが、それからも弁護という仕事では、場合によっては論理より感情が優先されることがしばしばある。
政治家の場合は、ある法案を通すために、その法案が正当であるというように、どうにかこうにか論理を組み立てる。
さらに、一般企業の営業職は、いかに自社製品、サービスが他社より素晴らしいかをお客さんに見せることが仕事となっている。
大学の研究等で実験をする場合、まず初めに仮説を立ててから、その仮説が本当に正しいかどうか検証する。それに対し、先ほど述べた弁護士や政治家、営業職の例では、仮説は立てるが検証はしない。なぜなら、仮説が「あるべき結果」になっており、その仮説が否定されてしまうことが問題になるからだ。営業で、「自社製品は他社よりしょぼいです」と言ったら営業マン失格となってしまう。
だから、がんばって「“自分の中の”あるべき結果(姿)」になるように後付けで論理を組み立てるのである。
そうすると何が起こるかと言うと、矛盾が生じやすくなる。
客観的データからは、どうやっても黒から白にできなくても、どうにかこうにか言葉遊びをしたり、感情的な印象操作で相手を騙したりし、白という結論を訴える。
すると、客観的なデータから物事を考える人からは、その言動が感情論に見えてしまうのである。
私が「文系脳=女性脳」と括ったのも、(私の知る限り)女性は結果ありきで話す人が多いからである。よく2ちゃんねるに載っている女性批判に使われる女性の会話コピペがまさにそうである。
どうしても白にしたくても言葉でどうこうなるレベルではない場合は、嘘をつく人さえ出てくる。
理系の研究の世界では、それがデータの改ざんとして客観的に明らかになり、周囲の研究者もデータから意見を述べるので、浄化作用が働く環境がある。
しかし、文系の世界の場合は、データから議論することが普段から少ないため(論文発表を理系と比べてやっている人が少ない)、中身のない言葉の言い合いで議論が行われ、嘘でも通ってしまうことがしばしばある。
それにより、文系脳の人の方が、虚言癖の人が多いとも予想する。理系の研究の世界でそんなことをしてバレたら、その時点で研究者として終了である。
話が微妙にずれるが、文系脳で厄介なのは、「結果ありき」で論理を組み立てるため、一応、自分の中では論理を組み立ている。そのため、客観的事実に基づくと、論理が破たんしていても「自分は論理的思考の持ち主だ!」と言い、客観的事実を基に組み立てられた論理的な内容でも、自分の中にある結果に結びつかない内容のものに対しては「相手は感情論だ!」と言うのである。
まさに、「お前ん中ではな」状態である。
それもあって、私は「あるべき姿」と訴える人に対して、誰にとっての「あるべき姿」だよと疑問になり、個人的にう~んと思ってしまう。
こうなってくるともう論理的な会話が成立しなくなり、あとはどれだけ相手の心を上手く操って相手を納得させるかといった、会話術が必要になってくるのである。
これが文系の人が生まれつき持った先天的な思考回路なのか、後天的に形成された思考回路なのか、どちらの影響が大きいかはわからないが(医学的に、男性と女性の脳は異なると言われている)、少なからず、後天的な要因もあると考える。これは理系脳形成の話や文系廃止問題にも関わってくる。
理系が論理的っぽい理由とプログラミングについて
理系脳は、文系脳とは逆で、結果ありきではなく、そこにあるデータから論理を組み立てていく。そのため、矛盾が生じることが少ない(データそのものが偏っていたり、間違えていたりする場合は、どこかで矛盾が生じる)。
大学で理系の研究をしていた人はわかると思うが、データが命である。データという証拠の保障があり、それを用いて話すため、論理的に見えるのである。
しかしそれもあって、結果ありきの文系脳の人に、理系脳の人が「Aというデータをもとに考えると~」と話すと、「回りくどい」「そんなの関係ねぇ!」「めんどくさい人」と罵られるのである。
理系脳は、後天的にも強化できると考えている。
なぜなら、私が昔と比較し、だいぶ感情論派より論理的派になっている気がするからである。その要因の一つがプログラミングをやっているかどうかである。
プログラム教育における有名な研究の「ふたこぶラクダ」の話がある。
この研究では、プログラミングができる人とできない人の集団は2つの山に分かれ、それぞれ思考方法(一貫したメンタルモデルを形成できるかどうか)が異なるという興味深い結果が示されている。
プログラミング(コーディング)できる人は定義通りに物事を考える傾向がある。つまり、データに基づいて話を組み立てる理系脳と話が似ていると私は考える。
この研究(論文)は、のちに撤回論文を出しており、「一貫したメンタルモデルを持っている生徒がプログラミングをマスターしやすく、 そうでない生徒は落ちこぼれやすい」ということは言えない、と述べている。
つまり、プログラミングできる人の思考回路の形成は、先天的なものか後天的なものかは追及されていなく、私の経験則では、この思考回路は、プログラミングをしていると鍛えられていくと推測する。
その理由として、プログラムは、定義通り、書かれた通りに動くため、思った通りにプログラムを動かすためには、論理的に正しいコードを書く必要があり、何度もそのコーディングをしていると、定義度通りに物事を考える癖がつき、論理的思考能力が鍛えられていくからである。
プログラムは、矛盾が成立しないため(矛盾は、エラーになる)、文系脳のような結果ありきの思考方法では、正常なプログラムを作ることができないのである。
以前、ドワンゴの川上会長(KADOKAWA・DWANGOの社長でもある)が、Twitter上で「文系は感情論」と批判して、2ちゃんねらーから「お前の意見が感情論だろ」と叩かれていたが、先述した話からも、ドワンゴの社長の意見は私としては、あながち間違っているとは思えない。
ただ、その結論を導く実験データがないため、あくまで私個人の経験則による意見である(なので、誰か実験してほしい)。
参考:IT速報 – ドワンゴ川上会長「文系は脳が小さく、論理的思考のできない感情論のやつしかいない」
面白いことに、私が今まで接してきた人の中では、プログラミングができる人ほど、論理的な話をするが、プログラミングができない人(プログラミングを試みたが、できなかった人)ほど、その時々の思いつきで、話を自分の都合のように変える(定義をコロコロ変える)傾向があるように見える。
また、文系脳の人は、自分の結果通りに動かないプログラムに対しイライラしてしまい、精神的に耐えられず、プログラミングを挫折する傾向があると考える。
逆に、最初はイライラしていても、耐えて、がんばってプログラミングの勉強をしていると、論理的に物事を考えるように鍛えられる可能性があるのではと推測する。
以上のことから、プログラミングが得意かどうかは、理系脳か文系脳かを区別する指標になると考える。文系出身でも、バリバリプログラミングできる人がいるが、そういう人は、理系脳(論理的思考)であるといえる。
逆に、理系出身でもプログラミングが不得意な人は、文系脳(感情論)の傾向がある。
ただ、プログラミングをしていると、定義通りに書かないとバグを生むという意識が刷り込まれていくため、話がコロコロ変わったり、辻褄が合わない会話をされたりすると、イライラしやすくなってしまうという思わぬデメリットもある。
ドワンゴの川上社長がTwitter上で、あんな発言をしたのは、仕事か何かで理不尽なことでも言われたストレスからなのではと憶測する。
また、プログラミングを義務教育に取り入れる案が出てきているが、政府は、論理的思考能力を鍛えようという思惑もあり、取り入れようとしているのか非常に気になるところである。だが、おそらく単純にSEを増やそうというのが目的だろう。
ここまで理系脳が優れているかのような書き方をしたが、必ずしも文系脳が悪いというわけではない。政治家や営業職では、文系脳の方が向いている可能性もあるからだ。
理系脳の人が、営業の仕事をしたとして、矛盾したお客さんの話やおかしい自社製品の売り文句にいちいち気にしていたら、ストレスが溜まってしまったり、お客さんとスムーズな会話ができなくなったりする。
逆に、システム開発の仕事で文系脳の人がコーディングや開発方法について、思いつきの意見を言ってきたら、開発者らを混乱させてしまうだろう。
つまり、適材適所である。
最良なのは、理系脳の思考回路を持ちつつ、ケースに応じて文系脳的な言動ができることである。
文系を廃止するべきか
文系分野の研究者を育てるという意味では、廃止すべきではないが、現状、多くがそうなっていないので、今より文系学部の数を減らした方が、国際競争力強化のためには効率的だと考える。
文系分野の研究者を育てられていない理由は、単純である。
勉強、研究するためではなく、大学に行くことが目的で文系に行く人が多いからである。さらには、勉強、研究していなくても卒業できてしまうからである。
文系の人を見ていると、数学ができないから、数学が嫌いだからという逃げ、または、文系の方が遊べるからといった理由で文系を選ぶ人が多い。
また、大学側も学生が勉強せず遊んでいても卒業させてしまう傾向が理系と比べ高い。
それに比べ、理系は、何々の勉強がしたいからという理由で学部を選ぶ傾向があり、逃げで、ある学部に行くような人は、文系と比べ低い傾向があると私の見聞きした限りだとある。
また、理系の場合、大学に入ったとしても真面目に勉強や研究をしないと、文系と比較し留年する確率が大幅に高く、卒業すらできない人もいる。
私が大学生だった頃は、私の学籍番号の±2番以内の人(計4人)では、2年間留年して卒業した人が1人、何年間か留年して結局退学した人が2人、ストレート卒業が1人であった。
つまり、高度な研究をする機関としての大学本来の機能が正常に備わっているといえる。
大学に行ってから、勉強が嫌になってくることもあるだろう。しかし、理系の場合は、卒業するためには、勉強しなければならないため、強制的ではあるが、知識も身に付く。
また、理系は、数学的な能力はもちろん、文章を読み書きする能力、英語を読む能力、議論能力など結局全ての能力が必要になってくるため、文系の上位互換みたいになってしまっている。
そんなことを考えていると、文系を作る必要すらないだろうという結論に至る。
ただし、文系に進む人の中には、文系のある分野で本当に勉強、研究したいと考えている人もいる。そういう熱意がある人らのために、全ての文系をなくすべきでないと考える。
それより、文系と理系とを分けずに、専門分野で区切るようにしてしまえば良いのではと考える。そしたら、自分が行きたい道をはっきり選択でき、責任感みたいなのも出るため、勉強もするだろう。
そもそも論として、大学で勉強、研究したくないならば、大学に行く必要性がない。4年間、フリーターしつつ、自分で何かしら好きな勉強をしていた方がよっぽど自分のためであり、お金の節約にもなる。
ただ、これには日本の新卒主義社会が問題にもなってくるから厄介な話ではある。
さらには、理系であっても大学に行く価値が減少している。
ネット環境が充実し、情報がいつでもどこでも簡単に手に入り、SNS等で様々な知識ある人とも意見の交換ができ、PC1つあれば何でも研究できてしまう時代になっているからである(もちろん大掛かりな設備が必要な研究は除く)。
これは、昔の時代なら不可能であった。そのため、昔は、大学の価値が今以上にすごくあった。
「文系を軽視」しているのではなく、逃げのための文系、大学印を得たいだけの文系を残しておくぐらいなら、そうなってしまっている余剰の文系枠を、新たな価値ある(お金になる)技術を生み出せる能力が備わる可能性が文系と比べ高い、理系枠にしてしまった方が、国の将来のためになると考える。
または、文系枠は維持したままで、文系の卒業要件を超スパルタにして、優秀な人材を育てるようにしても良い。これなら、文系廃止反対派も反論できないだろう。
ただ、文系廃止反対派が、勉強せず遊ぶことに文系としての価値がある!国が豊かになる!というのなら、その論理を聞き入れたいと思う。
以上が、私の偏った考えである。
ただし、これらは、現在の経済システムありきの話であり、技術革新必要なし、競争なし、原始人的なまったりな生活が素晴らしいという思想の元では、この限りではない。
コメント
文系はどうの、理系はどうの、とレッテルを貼る事は果たして「論理的」なのか?
どこに論理があるのですか?
それこそが「大衆感情論」とでもいうべきことなのでは?
下らないですよ。単純に文系に進む人が多いから相対的にそうなっているだけであって。
そもそも文系理系の垣根はどこにあるのです?
>> 匿名さん
レッテルを貼っているわけではないです。
なぜそのような傾向があると感じるのかを議論する必要があります。
それを下らないと述べ、議論せずにいては、高度な教育ができないと考えます。
また、レッテルなどそういう話にならないように、本文でも述べているように、
「文系と理系とを分けずに、専門分野で区切るようにしてしまえば良いのでは」
と私は考えています。